丸山眞男

自由であると信じている自由人は、偏見から最も自由でない。一見矛盾しているようであるが、それは、自分の思考や行動を点検しないからであるという逆説として成立する。逆も同じである。自分はとらわれている、自由でないと思っている者は、自由になり得るチャンスに恵まれている。それは、より自由に認識し判断したいと努力するからである。 そして、民主主義についても、民主主義が民主主義という制度の自己目的化を不断に警戒し監視し批判すること、つまり民主化するによって、民主主義であり得る。定義や結論より、プロセスを重視する。民主主義という制度はまさに「する」ことである。 急速に伝統的な「身分」が崩壊しながら、自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達が妨げられ、会議や討論の社会的基礎が未熟な時に、近代的組織や制度は閉鎖的な「村」を形成し、「うち」の意識と「うちらしく」の道徳が強くなる。組織や会議などの民主主義を促進するはずの制度は作られるのであるが、組織の内部の人間関係や会議の進め方は、徳川時代同様「うち」の仲間意識と「うちらしく」の道徳が通用する閉鎖的な「村」であった。日本人は、場所に応じて「である」行動様式と「する」行動様式を使い分けなければならなくなってしまった。 「する」ことが必要な制度の中に「である」ことが蔓延しており、どのように「する」のか分からなくなった。休日や閑暇は本来なにもせずにゆっくり休むことであったはずなのに、レジャーなど「する」価値が過剰になっている。学芸の在り方も、大衆的な効果と卑近な実用の「する」基準が押し寄せている。学芸の世界では、彼がすることでなく彼があるところ、価値の蓄積が大切である。それなのに、古典は軽視され、絶えず新しいものが求められ、大衆の嗜好や多数決がその価値を決めるような風潮がある。